舌切り雀



 学園 を離れて何年か、薄暗い山道を早足に文次郎は歩 いていた。
足元の黒い土は雨の日は泥土になるのだろう。草履を履 いた足跡と馬の蹄の跡が陥没し、乾いて残っている。おびただしい数の人と馬の足跡、車輪の溝はこの近 くで戦があったのを物語っていた。
陰気な場所である。草むらに取り残された兵士らしい死 体からは武器や甲冑やらが剥がされて裸だった。
そんな辺鄙な場所で、日が沈みぽつぽつと雨も落ち始め てきていたから困ったものだと文次郎は思った。野宿に向いた場所では無い。せめて降られるにしても足 場のマシなところでと草地を探して歩いて行ったその先である。
宿が、あった。



「一六文。」


その如何にも怪しい山奥の館の戸を文次郎が訪ねて宿を 求めてみれば中からしゃがれた老婆の声が返った。
宿代にしては些か高い。暗がりに目を凝らすとすぐ手前 の部屋から薄ら明かりがもれていて中には幾人もこの山中に珍しく化粧を施した女がひしめいていた。売 春宿なのだ。応対に出てきた老婆はそこからひとり連れて奥の部屋を使えと簡潔に言ってしわくちゃの手を差し出した。薄明かりの部屋から視線が一斉にこちら を向いている。文次郎は僅かに眉を寄せて、いや宿さえ借りられればと無粋に答えたがそれなら出て 行けと返事があった。老婆の枯れ枝の様な手がずいと文次 郎の鼻先まで伸びて要求する。


「一六文。」


さて結局抱くつもりの無い女の代金を払った文次郎は女 郎を見渡した。女郎といってもこの辺の戦で家や身体などを失った食う術の無い者を集めては旅客相手に 色を売らせているらしい。その所為か、色売りの女にしては隻目、隻腕、火傷など、傷の付いた者が多かった。
悩んでいるなら私にしなさいな、と立ち尽くす文次郎に 手前の女が遠慮がちに切りだしたのを機に他の女共も口々に文次郎の着物の裾を引き誘い呼び始めた。働 けばその分、食い扶持が増えるのだろう。
そんな最中、視線から出来る限り遠ざかろう、隠れよう としている女の後姿が眼にとまった。
顔は伺えないが首の細い、骨ばった後姿をしていて隅の 方に身を小さくしながらしかしどんな客がきたのかと伺う視線だけを寄こしている。

 その女が不意にはっと息を呑んで目を見開いた。
紅の崩れた唇を開き、今にも何か叫び出しそうにする が、女の口から言葉が零れることは無い。文次郎が訝しみ、どうしたと声を掛け半歩歩みかけたところで女 は踵を返し部屋の奥の暗がりに引込んでしまった。立ち上がらず腕で床を這いずって進む。


「あら、逃げられたのね。」


笑い声を立てたのは他の女で、文次郎は振り返らずにあ れは足が悪いのかと尋ねた。
囀る様に幾人かの女がかわるがわるそれに応答する。

「悪いもなにも、無いのよ。腐って切って捨てちゃっ て。」
「戦で両足が駄目になってあとは死ぬだけのあの子を婆 が拾ってね、顔が綺麗だったものだから飾り立てて客を取らせてるのよ。でも、駄目ね。」
「愛想無しだし、最初に客を取らせたときあの子自分の 舌を噛み切ったのよ。ほら、口が利けなかったでしょう。」

だからあの子は尺八が下手くそよ、と最後は下世話な冗 談で締めくくって女共はさざめいた。
それからまたお兄さん私になさいなと文次郎の裾を引き 始める、とその頃である、ずるずると着物を引き摺る音をさせて先の女が戻ってきた。文次郎の足元まで 這い、口元に咥えてきたらしい何かを落とす。取り上げてみればそれは渋緑の布袋で中には短い刀が入っている。
文次郎はそれをちょっと検分するや女の身体を担ぎあげ た。これにしよう、文次郎が低く言うと何処で聞き耳を立てているものだか廊下を挟んで向かいの辺りか ら奥の間へどうぞと老婆の声が響いた。



「お前は誰だ。」


女が持ってきた刀身の短い刀は忍び刀である。
文次郎はそれに見覚えがあった。渋緑の麻袋に入ったそ れは 文次郎がまだ十ばかりのころ、忍びを学ぶために門を潜った学園で最初に生徒に支給されるものだった。奥の部屋に引込んで、文次郎は女、いや恐らく同学の輩 であるから男であろうが、それの身元を尋ねた。
赤い着物の肩が震える。泣いているかと思えば声を立て ずに笑っているらしかった。

「おい、」

文次郎はただ笑うばかりの肩を引っ掴んで揺さぶった。 白い喉を晒してゆっくりと上げた顔が誰のものか文次郎にはすぐに分かった。よくよく見知った男だっ た。文次郎は男の身体を咄嗟に突き飛ばした。見たくないものだったのだ。
赤い着物の裾が跳ね返って膝から下の無い痛々しい太腿 が露になった。戦場で失ったと聞いている。お前ほどの男が何故、と文次郎は声を零した。


「留三郎」

そう呼ばれて、男は、ぴたりと身動ぎを止めた。尖った 肩から着物が落ちる。細い。痩せたのだ。
顔は青白く、筋肉は衰え細く頼りなげな身体付きに変わ り果て、かつて文次郎を殴り飛ばした健やかさは見る影もない。それでもそこにいるのは、留三郎という 男だった。
留三郎は、茫然とした顔をする文次郎の前にまた這いず ると刀を抜いて文次郎に握らせた。手刀で自らの首を叩く。ぐっと文次郎の眉間にしわが寄る。


「死にたいのか?」


舌を噛んでも死に切れなかったらしい男は目を瞑り、 くっと首を差し出した。言葉は返せない。文次郎は汗の沸く右手で刀の柄を強く握り緩めしていたが、その 内泣きそうに顔を歪めた。


「留三郎!」

文次郎は刀を取りこぼして留三郎の背を抱いた。細い。 女の様に痩せている。
顔は昔から綺麗な男だった。鋭く釣り上がった眼差しで 暴言を吐いては文次郎とよく殴り合いの喧嘩をした。
俺と来い、世話してやるから、
力の無くなった身体を組み敷くと留三郎が暴れた。膝か ら下の無い足をばたつかせて声の出ない口でなにか叫ぶ。唇を触れながら形を読んで文次郎はその言葉を 理解した。


殺すぞ。


はは、と短く笑って文次郎は己の顔を手で覆った。昔か ら好いていたのだ。一度も受け入れられたことは無かった。

「留三郎、俺はお前が」

留三郎は早く切れと言いたげに己の首を横一文字に指で なぞると、千切れた舌で口蓋を打って舌打ちのような音を鳴らした。
ちゅっ、と鳴って雀の声に似ていた。




死なないらしいです。

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